フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

「無知の知」って難しいよねって話

自分やその同志は学があって賢い、対して相手は粗野なお馬鹿なロクデナシだ、と思っている様子の意見を見るたびに思うのだけど、利口とアホが言葉を武器に支持を増やす競争をすれば、その勝敗は明らかじゃないの。

とすれば、前者のような人が負けるということがあれば、案外そういう人たちは自分が思っているほど賢くなかったり、相手は思っている以上に賢い、という可能性を顧慮するのが自然。

とはいえ、「多数派を向こうに回す少数派」という意識というのはどうも優越感やら特別意識を生じて自己正当化へと導きがちだし、希少価値と結びつけやすい。しかも最近ではポピュリズムだとか反知性主義とかそういう意識を補強してくれる理屈には不自由しない。囲碁や将棋のようなゲームとは違って支持獲得競争というのは言い訳しようがないほどの自分の力の欠如、とりわけ知的な点での至らなさを意識しにくい。

ここで思い出すのは、第二次大戦終結時に連合国は、ドイツが「背後からの一突き」という神話を生んだような「今回俺たちが負けたのは俺たちのせいじゃないから次やれば勝てる」という意識を徹底的につぶして嫌が応にも敗北を認めさせようとしたことだ。

「負けを認める」、あるいは「無知の知」というのは使い古された陳腐な言葉ではあるが、いざ実践しようとすれば実に難しいことだということを思い知らされる。