フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

平凡な日常はもはやアンチテーゼではなく、打破の対象である

今日では創作作品において平凡な日常を尊しとすることはもはや一般通念に対するアンチテーゼではなく、これこそが一般通念になっている感がある。冒険に挑んで一旗上げるよりは家族や友人などの愛しい人たちとの日常を味わうことのほうが良しとされているし、故郷やそういった愛しい人たちとの平凡だが穏やかな暮らし捨て、大きな目標のために茨の道を突き進む、というのは時代遅れなのかもしれない。

だが、生きているということは動き、変わり続けることであり、生命はそれを捨ててもよいと思えるほどの目的を持ってこそ価値を持つと俺は思うので、このような今日も明日も同じ日が続くような平穏無事的な腑抜けた価値観は反吐が出そうなくらいに気に食わないのだ。

ブルクハルトの言葉を借りるならば、こうだ。

幸福とは特定の状態にいつまでも留まるところにその本質があるとする見解自体がそもそも間違っている。原始状態もしくは自然状態では、ある一日がつぎの一日と、ある世紀がつぎの世紀と同じ姿をしているが、ついになにかあることでそれが中断して、歴史のある生活が始まるのであるが、こうした原始状態はとにかくとして、われわれはこう心に思わざるをえない。すなわち、同一状態に留まることは硬直化と死にいたることを意味し、動いてゆくことのうちにのみ、たとえそうしてゆくことがいかに辛くとも、生命が宿っているのだ、と。

しみったれた平穏無事的な一般通念を打破し、冒険や野望のため、動き、変わっていくことを良しとする既存の価値観に対するアンチテーゼが生まれる、そしてできることなら自分がその一助となることを願うばかりだ。