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フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

努力についての形而上学論争とその解消について

努力は必ず報われるか否かなんていう形而上学論争がある。

そんなものは明らかだ。「努力」の概念から演繹できる分析判断ではなく、やってみなければ分からない総合判断なのだから、努力は必ず報われるかということを議論のみで確定できないことは明らかだし、事実としてうまいっていない人がいる以上、「努力は必ず報われる」というのは明白にウソだ。「うまくいかないのは努力不足だからだ」なんていう派生形は努力と成功という言葉の意味を捻じ曲げて両者を同じ意味の言葉として使っているだけで、何ら事実について特に実のある話はしていない。ただの言葉遊びだ。いずれにせよ、実際に起こることに絶対なんてない以上、そんな問題は「やってみなきゃわからない」の一言で片がつく。とまあ、ここまでなら誰でも思いつく。分からない方がどうかしてるし、その上で「努力は必ず報われる」だなんて、白いものを黒と言い切る奴らには何か隠れた別の意図があると疑ってしかるべきだ。

で、さらによく言われるところでは、報われるかどうかがYESかNOかとは別に、世の人たちに努力は報われると思い込ませた方が世のためになる、だそうだ。多分あの手の嘘つき野郎はこういうプラグマティックな意図の下に白いものを黒と言い切ってるんだろう。

だが、思うに、何事も「絶対」はない以上、頑張ってもダメだった奴らは確実に出てくる。もしそんな失敗者たちが「努力は必ず報われる」と思い込まされて失敗したとすれば、怒りのあまり極端から極端へと、すなわち「「努力は絶対報われない」と考えるようになる恐れがある。ある「絶対」への信頼を裏切られたため、別の「絶対」を信じるようになるわけだ。

これは困ったことだ。こうならないためには中庸の態度が有用だ。「努力なんて博打」程度に教えた方がより有用だと俺は思う。「確かに努力したからといって何でもうまくいくとは限らない。どんなに頑張ってもダメな時はあるし、逆にちょっとするだけでうまくいく時もある。いずれにせよ、とりあえずうまくいくのに賭けてやってみない限りは何も得られない」そんなゆるい中庸の態度こそが無益な形而上学論争、努力の盲信とそれへの反発という両極端の不毛な争いに終止符を打つ鍵となる、俺はそう信じている。それに、全てが水泡に帰すかもしれないのに、結果が分からないことに限りある時間を果敢にベットして博打を打つ、これこそが人生を輝かせるものじゃあなかろうかしら。