フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

ある点から見た名誉、自負、面子の違い

名誉が地位と金と並んで三大俗物の求めるものにカウントされる理由は、多分名誉が面子や自負とごっちゃにされた結果なのではないかと思った。

名誉、自負、面子、これらは互いに似ているが、少なくとも「それを守るためのコストを負担するのは誰か」という点において区別することができる。

名誉を守るためにコストを払うのは名誉を持つ人自身だ。濡れ衣への抗議として自殺をしたり、自らを危険にさらして勇者としての名誉を得ようと戦ったり。「名誉の殺人」なんてものも大切な愛娘を名誉の祭壇で生贄に捧げるという点ではこれに含まれるだろう。名誉を持つ、あるいは求めることは損得の観点から言えば損、持ち出しなのだ。地位や金とは相反する。

面子はその逆で、コストを払うのは面子を持つ人ではなく、面子を「立てる人」だ。面子を守る、あるいは立てるというのは面子を持つ人に対して別の人がコストを払い、敬意や尊厳のある扱いをするということで、面子という言葉はこのようにして用いられることがほとんどだ。よって面子は地位や金とは矛盾しない。

自負、別の言い方では自尊心なりプライドはこれらの中間的なもので、コストを負担するのはこれを持つ人の時もあれば、他の人の場合もある。ある場合にはこれを身の丈に合わない大盤振る舞いをして気前の良さを示すことで守り、またある場合には他の人を足蹴にすることでこれを満たす。これも地位や金とは矛盾しない。

で、結論としては、三大俗物の求めるものとして「名誉」がカウントされる際にはこれが多分面子や自負とカン違いされているのではなかろうか、ということ。

俺の思うに、名誉を俗物の求めるものとしてカウントするような人は面子や自負は持っていて知ってはいても、名誉心というものに縁がなく、名誉の何たるかを知らないのではあるまいか。名誉が軽んじられ、名誉心を抱く人がほとんどいないような現代にあってはありそうな話じゃなかろうか。