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フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

歴史小説家の楽しさと批判バカの色気のなさについて

時折真面目腐った歴史オタクたちが司馬遼太郎やら塩野七生の記述のいい加減さを云々カンヌン言うのを見るんだけど、彼らは本当に色気がないね。彼らの言うことはただの小言って感じで、傾聴しようって気にさせてくれない。惹かれない。

彼らがやり玉に挙げる司馬遼太郎やら塩野七生は巧みな文章で場面を描き、面白い視点を提示しつつ読者を楽しませ、ぐいぐい惹きつける。これに対し、そういう批判バカは大上段から振りかぶるような調子で、それでいてネチネチグチグチと重箱の隅を突っつくようなお小言と真面目くさったご高説を垂れるもんだから、耳を傾ける気にはなれない。人を惹きつけよう、自分の言うことに耳を傾けてもらおうという精神、サービス精神、これらが全然ない。まるで正しささえあれば他は何もいらない、内容が正確ならばみんな自分の言うことに耳を傾けてくれるとでも言わんばかりだ。

俺とて司馬遼太郎やら塩野七生の記述がそのまま正しいとは思わないし、読んでいて「ん?」と思うこともままある。でも、楽しいから読み続ける。逆に何かの拍子にネットでそういう批判バカの検討記事やら批判文章を見つけると「そっすね」と心の中でつぶやき、読み飛ばす。楽しくないから読む気になれない。

司馬遼太郎やら塩野七生やら、あるいは彼らの愛好家たちに一泡吹かせてやりたいんだったら、「内容さえ正しければそれでいい」じゃなくて、内容の提示の仕方を考えてやれ、楽しんで読めるような提示の仕方をしろと言いたいね。