フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

青臭いことを言ってやるぜ!

最近の若い人たちの価値観は安定志向だって言われてるよね。でもそれってさ、前の世代には当然あった安定性がもはや失われたからでしょ? 安定性を前の世代が当たり前に享受していたのを見ながら育ってきた人が自分も当然それと同じものを享受できるだろうと期待するのは自然な成り行きだよね。だから、若者の安定志向は状況が与える刺激に対する反応でしかなく、彼らの本来的な価値観といえるようなものではないと俺は思う。極端な例を使うならば、長年にわたる籠城や飢饉で食べるものがなくなった人たちが生きるために食人に及んだとしても、それだけで彼らがもともと食人を好む性向を持っているということにはならないのと同じ。このケースや、若者の安定志向は、食人を好む性向や安定を重んじる傾向という内的な原因からくるものではなく、食べるものがなかったり、社会の安定性が減少しつつあるという外的状況に由来する、外的刺激に対する反応として理解されるべきものだ。だから、食人や安定志向はもとからそれらを追求しようという価値観から来たものだとは言えないし、価値観というものは外的状況からはある独立したものなんじゃないかと俺は思う。つまり、衣食住が保障され、生活に多少の余裕があっても、食人や安定性を追い求めるのならば、それはその人の価値観だろうが、そうでなければ、それらは外的刺激に対する反応でしかない。

で、ここから一般化して、俺はこう考える。価値観っていうのは、(思考実験としてであろうとも)全てが満たされた状況に置かれたときに姿を現すものなんじゃなかろうかと思う。経済的に余裕があって、自分を取り囲む人間関係に一切の不満がなく、仕事が楽しく、あるいは仕事から解放されて完全な余暇を持ち、全てが満たされていても、これがなければ自分の生は不完全だと強く思う、これを獲得するためにはこれらの安逸を全て捨て去ってもかまわない、最悪命を投げ出したって良いもの。そういうものこそが価値観という名を冠するに値するものじゃないの。