フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

「自分が嫌い」とか言う連中に対する違和感

たまにさ、「自分が嫌い」って言う人っているよね。俺の周りにも一人いる。

でもさ、そういう人たちは大抵人並みに幸せや快楽や楽しいことを追求しているように思えるんだよ。友人との交際やら美食やら娯楽やら。

でもね、ある者を嫌うということは、その者に不利益や不快、不幸が降りかかることを期待する感情と切っても切り離せないはずだし、たいていの場合、人は誰かを嫌えば、その人を痛めつけたり、苦しめたりしたいと思うし、実際にそうなっている様を見ればほくそ笑むものだ。「俺はあいつが嫌いだけど、あいつは幸せになってもいいんじゃないかと思う」なんて言う人がいれば、本当に彼がその人を嫌っているのかと疑わない人はそうはいない。

してみると、自分が嫌いであるならば、自分を痛めつけたり、苦しいこと、嫌なことを志向しそうなものだが、「自分が嫌い」と言う人の中でそういう風に自分を扱う人を俺は見たことがない。とすれば、「自分が嫌い」と言う人が感じている感情は、自分に対する嫌悪や憎悪ではなく、それらと似て非なる何かしらの感情であり、その感情を自分に対する嫌悪や憎悪と勘違いしているのではなかろうかと俺はいぶかしんでいるわけよ。