フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

どうも最近、「社会人基礎力」やら「コミュニケーション能力」みたいに、まるでよさげな商品を買い物かごに片っ端から投げ込むように、良さそうな資質を見境なく詰め込んだむちゃくちゃな言葉が猖獗を極めているような気がする。

 

 

あともう一ネタ。

はてなブックマーク - 努力という言葉に見る日本の落日

この記事を読んでいて思ったんだけどさ、学歴学歴言うけどさ、世間一般で使われる「学歴」という言葉にはその学校で何を学んだか、そこでどんな習の経を積んだかが含まれてないよね。日本の大学なんてさ、よっぽどヘタをこかない限りはたいていの場合、入学すれば卒業なんて約束されるようなもんじゃない? とすれば、「学歴のすごさ」は入学の時点、学問の道のスタート地点で確定していることになるし、入学後の状態、どれだけ学問の道を歩んだのかが勘定されることもない。現にさ、「俺はの出身校は○○大学だぜすごいだろ」と自慢する人とか「高学歴なんだ、すごーい」と誉める人はいるけど、「俺は○○大学で××を研究してこんな成果を上げたんだぜ」とか「△△大学の□□先生のおかげでこんなに学問を深めることができた」っていう自慢を聞いたことがないし、そいうのを誉めている人も聞いたことがない。

俺は大した大学を出てはいないけど、その大学で尊敬する先生に出会い、学問の面白さを味わっただけになおさらそういう連中が癪に障る。連中の頭を占めているのは過程どころか結果ですらない。スタート地点に立ったこと、ただそれだけだ。

これってさ、偶然貴族の家に生まれたけど、その家柄に相応しい目覚ましい働きをしていないぼんぼんが家柄を自慢したり、他の連中がそれを誉めそやすのとどう違うんだ? ええ?

アンタ、まだスタート地点に立っただけであって、まだ何も成し遂げていないじゃないの。

 

とまあこんな威勢のいいことを書きつつ、俺も実際のところそういう人に会った時は「はーん、で、その大学で何を学んだの?」とか言って徒に敵を作るよりは「○○大卒なんだ。すご~い」でお茶を濁してるんだけどね。