フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

少子化は恋愛をしない、あるいはできない人たちが悪い、みたいな風に世間では思われているっぽいけど、一番の悪は本当にそういう人たちなのか、とふと思った。

まずもっていえば、出産へのプロセスは単純化のために私生児の場合を除外して恋愛結婚をモデルケースにするならば、

恋愛→結婚→出産

という手順を踏む形になる。

しかし、恋愛をしている人たちは第一段階の「恋愛」を自由勝手気ままに楽しむ一方で、第二、第三段階の「結婚」と「出産」へは必ずしも、そしてなかなか進まない。

その一方で恋愛をしない、できない人たちは第一段階で躓き、その結果として第三段階に進めなくなっている。

そういうわけだから、いずれも「出産」をやらないという点では同じではあるものの、恋愛をしている人たちは恋愛をしない、できない人たちに比べて「出産」までの距離が近く、ハードルが低いということになる。

以上を踏まえつつ、殺されそうになっている人がいることを知らず、その結果その被害者を助けることができない人よりも、眼前で今まさに人が殺されそうになっているのに彼を見殺しにする人の方が罪深い、という場合とのアナロジーで考えてみれば、出産を「できず、しない」人よりも出産を「できるのに、しない」人の方が少子化に関する罪深さの程度では上なんじゃないのか、と思ったわけ。