フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

論理記号でおk

外人との話で使う国際語は案外論理記号をすべきであり、そうした方が意味が正確に通じるのではないのか、そして伝達と習得が楽なのではないかと半分冗談半分真面目に思う。

古典論理で使う論理記号の意味、論理式の作り方なんて一日もあればざっくりと習得できるし、あとは具体的な関数やら項を設定して各言語ごとの辞書を作り(なるべく語彙数は少なくシンプルに)、国際的な読み方(なるべく単純に)なんかを設定してやればいけるのではないのか。不完全性定理なんてものもあるけど、記号体系の完全性なんて普通に使う程度ならさして問題にはなるまいよ。

メリットとしては、論理記号を使えば文が短くなるし、文法も画一化されるのでリスニングや面倒臭い文法、語順やら何やらに苦しまずにすっと文を理解できるという点。さらに、例えば英語ができる=国際人という考えを持った、どうやら日本以外の全ての国の人は英語ペラペラとでもいいたげな、英語よりも論理的思考力を鍛えるべきなんじゃないかと思うような連中やら、欧米コンプレックスの針が振り切ってしまって英語を過度に崇拝して英語ができる=偉い・優秀という妙な価値感を持つに至った連中(そういえば、帰属意識やらアイデンティティって中心的な人よりも周辺的な人の方が強く持つよね)というような英語一強の状況による歪な考えを持った人間を生まずにすむし、複数言語の共存だって可能だ。

外国の文豪の作品を味わいたいとか、何かしらの学術的な研究をしたいとかで個別の言語を勉強したいと思えば、各人で勉強するなりすればいい。

まあ非現実的であることは重々承知しているけど。