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フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

カツシンとアイカツの観念連合が強すぎてアイカツは相田勝太郎という俺の脳内にのみいる大物俳優の略称としか思えない今日この頃。

「無知の知」って難しいよねって話

自分やその同志は学があって賢い、対して相手は粗野なお馬鹿なロクデナシだ、と思っている様子の意見を見るたびに思うのだけど、利口とアホが言葉を武器に支持を増やす競争をすれば、その勝敗は明らかじゃないの。

とすれば、前者のような人が負けるということがあれば、案外そういう人たちは自分が思っているほど賢くなかったり、相手は思っている以上に賢い、という可能性を顧慮するのが自然。

とはいえ、「多数派を向こうに回す少数派」という意識というのはどうも優越感やら特別意識を生じて自己正当化へと導きがちだし、希少価値と結びつけやすい。しかも最近ではポピュリズムだとか反知性主義とかそういう意識を補強してくれる理屈には不自由しない。囲碁や将棋のようなゲームとは違って支持獲得競争というのは言い訳しようがないほどの自分の力の欠如、とりわけ知的な点での至らなさを意識しにくい。

ここで思い出すのは、第二次大戦終結時に連合国は、ドイツが「背後からの一突き」という神話を生んだような「今回俺たちが負けたのは俺たちのせいじゃないから次やれば勝てる」という意識を徹底的につぶして嫌が応にも敗北を認めさせようとしたことだ。

「負けを認める」、あるいは「無知の知」というのは使い古された陳腐な言葉ではあるが、いざ実践しようとすれば実に難しいことだということを思い知らされる。

アンドレイアというアレテー

男らしさに縛られたくない、男らしさを押し付けないでほしい、という主張そのものに対しては「ま、いいんじゃないの」と思える。そういう人がいても別にいい。

だが、そういう主張に不可分と言っていいほど結びついた強さを憎悪し、弱さを良きものとみなし、これを売りにする卑屈な自負に対しては、三島由紀夫じゃないが反吐が出る。

「てめえらは哀れなことに生まれた時代を間違ったようだ。もっと前に生まれていればその女々しくて男らしさなんて欠片もない根性にお似合いの宦官っていう天職が得られたんだからな」という嫌味の一つも言いたくなる。

平凡な日常はもはやアンチテーゼではなく、打破の対象である

今日では創作作品において平凡な日常を尊しとすることはもはや一般通念に対するアンチテーゼではなく、これこそが一般通念になっている感がある。冒険に挑んで一旗上げるよりは家族や友人などの愛しい人たちとの日常を味わうことのほうが良しとされているし、故郷やそういった愛しい人たちとの平凡だが穏やかな暮らし捨て、大きな目標のために茨の道を突き進む、というのは時代遅れなのかもしれない。

だが、生きているということは動き、変わり続けることであり、生命はそれを捨ててもよいと思えるほどの目的を持ってこそ価値を持つと俺は思うので、このような今日も明日も同じ日が続くような平穏無事的な腑抜けた価値観は反吐が出そうなくらいに気に食わないのだ。

ブルクハルトの言葉を借りるならば、こうだ。

幸福とは特定の状態にいつまでも留まるところにその本質があるとする見解自体がそもそも間違っている。原始状態もしくは自然状態では、ある一日がつぎの一日と、ある世紀がつぎの世紀と同じ姿をしているが、ついになにかあることでそれが中断して、歴史のある生活が始まるのであるが、こうした原始状態はとにかくとして、われわれはこう心に思わざるをえない。すなわち、同一状態に留まることは硬直化と死にいたることを意味し、動いてゆくことのうちにのみ、たとえそうしてゆくことがいかに辛くとも、生命が宿っているのだ、と。

しみったれた平穏無事的な一般通念を打破し、冒険や野望のため、動き、変わっていくことを良しとする既存の価値観に対するアンチテーゼが生まれる、そしてできることなら自分がその一助となることを願うばかりだ。

強固な信念は成長を阻害する

ヒラリー派と括ろうが、リベラル派と括ろうが、SJWと括ろうが、この手の自分の正義を疑わない人たちが負けた時に「我々は負けはしたが、正しい」と自己正当化するのって彼ら自身の不利益になってる気がする。

最近のアメリカ大統領選でヒラリーが負けた時だってその手の人たちの発言の主語は「トランプ」であり、「レイシスト」であり、「ワーキングクラス」で、話題はそういう人たちがいかに馬鹿で邪悪であるかだ。この敗北を受けて、あるいは次の戦いに備えて「我々」は何をどうすべきかというのをサッパリ聞かない。あるとしても敵をどうやっつけるかだ。

多分、彼らの脳内では「我々は正しい以上、我々の敗北は悪者のせいである」っていう思考パターンが出来上がっていて、敗北の原因は自分ではないもののせいであるために自分たちが何をどうすべきか、どう変わっていくべきかという観点がすっぽり抜け落ちているように見える。だから、何度負けても同じパターンで負け続け、一度負ければ負けが続いてるんじゃないかと思う。

「我々は負けはしたが、正しい」というバイアスは強固な信念を持つ人たちに敗北の原因を外的なものに帰属させ、彼らの成長や学習の芽を摘むことになり、その結果いつまでたっても現実で勝利できないという具合になっているように思えるわけだ。

 

その点ではこの手の人たちが蛇蝎のごとく嫌ってる安倍総理は第一次政権で自分のやりたいことに邁進しようとして失敗した結果を踏まえて第二次政権ではまず経済を立て直して支持を確保し、それから本当にやりたいことをしようとしているあたり、彼らよりも賢明に見える。

ペリクレスに倣いて

弱さはそれ自体では悪ではないけど、弱さに安住するのは悪だ。

人気のある政治家がいたとして、彼が自分の気に入る人ならば「国民の声に耳を傾ける良き政治家」だけど、気に入らない人ならば「大衆に迎合するポリュリスト」となる。