フィロティモス偸生記

καθεύδειν αὐτὸν οὐκ ἐῴη τὸ τοῦ Μιλτιάδου τρόπαιον.

大人のはしかは恐ろしい

大上段から振りかぶられる社会や世間、とりわけ日本人一般や日本社会への批判やら苦言みたいなものを見るにつけ、俺は思わざるを得ない。

賢くてキチンと物事を考えているのは自分だけで、世間の連中はみんな頭空っぽで、多数派に迎合し、雰囲気に流されているだけ、という考えはティーンエイジャーの頃にかかるはしかのようなものであり、そして仮にかかるとすればそうであってしかるべきであり、大人になってかかると目も当てられないものになってしまう、と。

畜生! 先を越された!

久しぶりにアマゾンで歴史関係の本の新刊チェックをしてたら、助祭パウルスの『ランゴバルド史』が訳されていたのを知った。

実を言うと、まだアッピアノスもディオドロスもプセロスも翻訳が完結していないにもかかわらず、俺は『ランゴバルド史』をちょっとずつ訳していたのだ。

数章しか訳していないとはいえ今までの労苦が無駄になったのは悲しいが、こんなマイナーな本の邦訳が出たことは喜ばしい。

痛し痒しだ。

「親孝行、したい時に親はなし」とは言うが、自分は存分に親孝行をしたぞと思いながら親の死を迎える人の話は聞いたことがない。

とすれば、別に親孝行をしてもしなくても、人間どっちみち後悔するなんじゃなかろうか。

とすれば、別に親孝行なんてしてもしなくても子供自身の気持ちは変わらないんじゃなかろうか。

そんなことをトイレで糞をしながら考えた木曜日。

タンタロスのブドウ

それが良きものであることを認めつつ、それが自分には手に入らないということを噛みしめるならば、その人はタンタロスの苦しみを受けることになる。これはとんでもないストレスだ。してみれば、自分の手に入らないものを叩く人たちを軽々しく酸っぱいブドウだのと揶揄するのは、その人にそのようなストレスを受けろと言っているも同然だ。そういうわけで、俺は多少見ていて不愉快な言論であろうとも、それを「酸っぱいブドウ」だと言って叩くのにはどうも二の足を踏んでしまう。不運が度重なり、餓えた挙句にパンを盗んだ人を無邪気に盗人だと言って糾弾できないのと同じだ。

踏み絵云々という話を聞くたびに俺は疑問に思うんだが、どうして宣教師たちは布教先でキリスト教では偶像崇拝はダメだよということを教えなかったのだろうか?

神を描き、それを拝み、かしずくという行為の禁止は十戒という基本的な教義の一つであるにもかかわらず、だ。

宣教師たちのこの変な教え方のおかげでどれだけの人がただの絵を踏まずに罰を受けたのだろうか。

 

案外目に見えない神様について教えるのが難しいからとりあえず偶像を使って説明したところ、これがウケたおかげで後に引けなくなったとかそんなオチだったりしてね。

ふと思ったんだけど、守安功って中国の故事成語みたいな名前だなあ。

 

守安功【しゅあんこう

安しを守るは功なり(たやすいことであっても守り続けることは功績である)。転じて基本に忠実であり続けることは立派であるという用いられ方をする。

事実は小説より奇なり

今日の「ジェーン・スー生活は踊る」の相談コーナー「相談は踊る」聞いてみ?

ポッドキャストでもyoutubeでもいいからさ。

そこに出てきた相談者、すげえよマジで。こんなテンプレ通りの女っているんだって俺びっくらこいたよ。むしろ感動すらしたよ。

風呂敷包みをしょってほっかむりを被った泥棒を見たような気分だよ。